初めての京都活元会③

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みなさん、こんにちはー✨

 

今日も、このページを開いて下さり

ありがとうございます。

 

整体の持つ価値に、少しでも多くの方が触れる機会となれば幸いです。

 

「初めての京都活元会」最後になります。

 

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【活元運動とは】

昭和20年代野口晴哉が提唱した野口整体の要素(活元運動、愉気法、体癖論、潜在意識教育論、整体体操、整体操法論)のひとつ。身体自らが不調を回復する動き、またはそのための体操法・行法。

生を全うしようとする人間の裡にある力をより敏感にするための※錐体外路系を利用した自己訓練法。(参考:ウィキペディア、整体協会より)

 

※【錐体路系】大脳から脊髄を通って下行する、随意運動経路。

(意識して身体を動かす働き)

 

※【錐体外路系錐体路系運動外の不随意運動系路。錐体路系に協調して働き、錐体外路系に障害があると、錐体路系運動の働きも影響を受ける。

(意識で動かす事の出来ない働き…あくび、くしゃみ、寝相などの反射運動)

 

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…………………

 

「はい、それではご一緒に呼吸を合わせます。」

 

「うぅ--む。」

 

「お腹に息をためて、片方づつ目を開けます。」

 

 

次は二人一組になっての相互運動のための

準備の手順である。

 

 

「あなた、いらっしゃい。」

 

と私に手招きをされる。

 

その後に、言葉はなかったと思うが、

なんとなく…

 

 

(さぁ、さぁ、いらっしゃい。)

 

 

と言われた様な気がした…

 

 

まずは、頭の緊張を取るために、

頭部第二調律点に輸気をする。

 

私が受け手になり、先生が輸気をして下さる。

 

鬼塚先生の手は、今まで触れられた人の中で、

一番柔らかく感じた…

 

いや、二番目だ…

 

(一番目はやはり小学校の時の友人の手。

いつもニコニコと明るく、やさしい笑顔を振りまく子で、ふとした時に手を握られて、その手の柔らかさに驚き、相手の手を掴み返して、マジマジと手のひらを眺めた事がある。今もその手の形と手の感触をありありと思い出すことが出来る。こうして書いていると、受け手の私は無心では無かったと少し反省するが…)

 

 

私が正座をし、後ろに立たれた先生の気を、

目を閉じ、静かに感じてみる。

 

柔らかくごく自然にスッと手を当てられると、

手の柔らかさの中に、その齢を感じた。

 

 

ひと通りの説明が終わると、

 

「では、二人一組で始めて下さい。」

 

「今日は音楽をかけますよ。」

 

 

そばにいた顔見知りのMさんと組んでの

相互運動。

 

 

相互運動は、いつも少し構えてしまいがちになるのだけれど、なるべくこころを開いてぽかんとするように、体の動くままに任せてゆく。

 

 

そして相手の動きについてゆくような、

受け止めるような、頭を空っぽにして

普段あまり使わない自分の感覚を

最大限に発揮してゆくような感じ。

 

 

無心に、夢中になって体を動かしてゆく。

 

 

相手の中に脊椎の動きを感じる。

 

 

目を閉じていると、もうその相手はいつものMさんではなく、ただ脊椎だけがぐにゃぐにゃと動いて、骨が独立しただけの存在であるかのような感じがしてくる。

 

 

その人の意識である*錐体路系は遠のいて

錐体外路系である純粋な体の欲求だけを感じているような感覚。

 

 

無意識の領域が解放されているような感覚。

 

 

完全に時間の外にいるような感覚の中で、

急に鬼塚先生の声がすっと意識に呼びかけてくる。

 

 

「それではご一緒に息を吸い込みます。」

 

「うぅ--む。」

 

「とお腹に息をためて、片方ずつ目を開けてゆきます。」

 

…………………

 

 

静かに片方ずつ目を開ける。

 

 

「運動」というだけあって、

活元運動、相互運動の後は、やはり一般的な運動の後と同じく、体が爽やかにリフレッシュされた感じがする。

 

 

(終わった………)

 

 

組んで頂いたMさんとお互いに礼をして終わる。

 

私は少し相手の目を真正面に見ることが苦手なところがあるのだけれど、恐る恐る真正面に向き直る。

 

 

「ありがとうございました。」

 

 

相手にも、キラキラとした爽やかさが

目に現れている。

 

 

それを見てまた相手の爽やかさを知り、

今日という日が充実した一日になったんだなと感じたりする。

 

 

最後は、活元運動の後の良い状態を脊椎に残すための運動をする。

 

 

「ぐ--っと背骨に力を集めて、ふっと抜く。

もう一度、今度は少し高い位置で。」

 

 

「ぐ--っと力を集めて、ふっと抜く。」

 

 

すると鬼塚先生がすっと私たちの方に来られて、

 

「抜くときはね、こういう風に、ふっと抜く。

こんな風に抜いてしまうと力が背骨に残らないよ。背骨に力を残すように、こうしてね。

前に抜くんだよ。」

 

 

「……そう、…そう。」

 

 

「はい…はい… あ、こうか。」

 

 

鬼塚先生のお歳ははっきりとは分からないのだけれど、その年齢によらず、明晰に全体と個人個人をしっかりと見ていらっしゃる。

 

 

目を覗き込むと、白髪の眉毛の奥に鋭い眼光を感じた。

 

 

そしてその鋭さの中に、優しさと奥深い情熱を感じたのは気のせいではないと信じる。

 

 

野口先生の息子さんである(故)裕介先生は、

「気は、愛かもしれない…」

とボソッと仰ったという。

 

 

私はその話しを聞いた時、

(あぁ、やっぱりそうだった。)

と納得して、とても腑に落ちたことがある。

 

 

つまるところ

「気が気を呼ぶ」というのは、

そこに愛があるかどうかなのだなと思う。

 

……………………………………

 

いつの時代にも「愛」というものは

人の理解に及ばず、単純でありながら複雑で、

数知れない誤解を招いて来た。

自分からは遠く離れているように思うが、

いつもそこにあり、自分自身の中を片時も離れず流れている。

 

 

そんな風に思う。

 

 

日本には元々、キリスト教が入ってくるまでは「愛」という言葉がなかったそうだ。

 

 

ネイティブ・アメリカンの人々も

「自然」という言葉を持っていなかったように、それはごく当たり前に常に存在し、

自分自身とそれは分離されたものではないという感覚なのだろうと思う。

 

 

人が今ここにあるもの、

自分の中にあるそのものに

気づくことは難しい。

 

私は持っていない

足りない

欠乏していると言い

常に飢えて渇望している。

 

この唯物主義の中で

あれでもない、これでもないと

渇望しているものは

結局は、目には見えないものなのだ。

 

 

その言葉にならない

思いの隙間を埋めてくれるものは

言葉にならない、

目には見えないものでしかない。

 

 

ロイ先生(裕介先生)が、

「気」は「愛」かも知れない。

と仰るなら、

 

私はそこに

「愛」は「いのちそのものである」

と付け加えたい。

 

…………………

 

言葉というものはとても不便で、

目に見えないものを表現することは難しい。

言葉にしてしまうと、

途端につまらないものに思えてくるのだ…

 

 

とにかく、現代人である私たちに

必要とされていることは

この唯物主義の只中にいて、

目には見えないものに気づき、

触れてゆくことだと思う。

 

そんな生き方が人の人生を満たした時、

この現代社会の抱える膨大で深刻な問題のほとんどは、いともたやすく解決されるであろうとも思う。

 

…………………

 

「今みんなは、目には見えないものに触れている。」

 

と*藤山先生は私に仰った。

 

整体に出会い、整体を通して

日々目には見えない

いのちに触れ、いのちを学ぶ。

 

 

それが今の私にとっての「整体」なのだなと感じており、その「感じる」という力を育ててくれている。

 

 

一概に、その痛みを取り、

その病気を治したりするものが「整体」だと言ってしまうと、それは余りにも表面的すぎてつまらない。

 

 

少しでも多くの人に「整体」を通して、

「いのち」にふれ、限りなく微細に振動する、目には見えないそのものを感じてほしいと思う。

 

 

私自身もまだまだ道の途中であり、

いのちがどんなものであるかを

知り尽くしてなどいないし、

知り尽くす事も出来ないのだと思うが、

その短いひとの一生の中で

知り尽くせない奥深さが、

死ぬまで私に探求という楽しみを与えてくれることに感謝している。

 

いつかこんないのちの話が、

ごく当たり前に人々の間で語られるような

そんな時代が来ればいいなと思う。

 

 

 

 

 

おわり

……………………………………

 

長文となりましたが、

最後まで目を通して頂き感謝します。

 

ありがとうございました。

 

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(*藤山先生… npo法人二宮整体アカデミーの

講師、理事長、(故) 二宮進先生の一番弟子でもあられます。)