風邪の効用と新年の過ごし方

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新年あけましておめでとうございます。

 

みなさまどんな年越しを過ごされたでしょうか?

 

私はといえば、お正月はいつもどおりに過ごすたちです。🙂 

 

ほとんど何も特別なことはせず、いつものとおり。

 

整体的生活を当てはめると、余計なことはしないんです。(笑)

 

と言っても、ほぼ確実に大晦日か元旦に、

酷い風邪で寝込むのが常で、この数十年は、

寝正月、というよりは熱と寒気で寝込み正月でした(苦笑) はは🙃

 

ところが…

今年は風邪を引かなかったのです🙂

 

去年まで引いてたのに。

 

おかしいな?

 

お菓子いな?

 

……

 

整体では風邪をひいた方がいいんじゃないの?

 

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話は飛びますが…

 

上の写真は昨日の夜に焼いた、

レモンココナッツケーキ。

 

最近レモンケーキばかり焼いているのですが、

 

昔読んだ、ティック・ナット・ハン禅僧の本の中で、師匠に向かって、

 

「あの世に檸檬の木がないのなら、私は極楽へなど行きたくありません。」

 

と言った。という一節がありました。

読んだ当時は、ほんとに衝撃を受けて、

 

瞑想することで、この「俗」と言われる

「世間」から離れるのではなく、

逆に、この物質世界の輝きを観ておられるのだなと。

 

そんなふうに感じて、檸檬を見るたびにそんなことを思い出したりして、

 

いつしかレモンが大好きになったのでした。

 

☆ウォーキング・メディテーション―歩く瞑想の本 https://www.amazon.co.jp/dp/4795275297/ref=cm_sw_r_cp_api_i_-TcdEb0S81W51

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レモンカードも作ったよ。

 

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話を戻すと、風邪を引かなかったのは、

 

Vitamin C !

のせいだろうか?

 

いやそれもあるかもしれないけれど…

今年何十年ぶりに風邪を引かなかったのには色々な事情が重なる。

 

整体の勉強を始めて7年。

 

月に一度、藤山先生の整体指導を受けて二年がたちました。

 

そのおかげで、体は随分と変わり、冷えに敏感になり、体温が上がり、水分を保つようになり、胃腸が整い、便通も良く、10体壁的には、一番虚弱体質であるにも関わらず、随分と体力もつきました。

 

・Vitamin C

・足湯

・水分をよく取るようになったこと

・無理をしなくなったこと

 

この四つだな。

 

体が整ってくるほどに、

風邪の経過は短くなっていきます。

 

2・3日かかったのが、1日になり、

1日の経過が、半日や、数十分、数分にまでなるといわれます。

 

私の場合、体が整うことで通りが早くなり、

気がつかないくらいの風邪が経過したんだと思います。

 

そういえば、少し熱っぽく、だるい日があったな。

 

☆風邪の効用 (ちくま文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4480038078/ref=cm_sw_r_cp_api_i_tBbdEb7A2BKY9

 

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とにかく、整体というものは合理的で、

いいこと尽くめ。

 

「余計なことはしなくていい」

がモットーです♪

 

みなさま、風邪のためのお薬やワクチンは要らないですよ♪

 

余分なお金と時間を使って、

ますます風邪の治りが悪くなるだけ。😦

 

これまた引用ですが、

聖書の中に

 

「真理は、人の荷を軽くする。」

 

という言葉があります。

(訳書によって言葉は色々かもしれません)

 

本当にその人にとって必要なことは、

心が軽くなり、現実的重荷さえ下ろしてくれるもの。

 

ああしなければならないとか、こうしなければダメだ。とか、不安を煽り、重荷を背負わせるようなことは、自分にとっては真実ではないのだと、私もこれまで、この言葉を当てはめてきました。

 

 

そして、整体に出会った。

 

 

世界はますます超複雑社会へと突入してゆきます。何から何まで管理しなければならない。

 

命さえ。

 

ミスは許されない。

 

いや、ミスだらけ。

 

なのに、やらなければならない事ばかりが増えていく一方です。

 

 

そのうち、ねじ曲げられた美学によって、息の根を止められてしまいます。

 

…………………

 

整体の知識が、重荷を下ろしてくれることを

少しでもお伝えすることが出来ればいいなと

思います。

 

本当のいのちのありようとは何かを、

少しでもお伝えすることが出来ればいいなと考えています。

 

…………………

 

今年も整体をとおして、

みなさんの心と体が軽やかになるための

お手伝いをしてゆけたらと願います。

 

整体を通して出会えるご縁に感謝して。

 

共に学べることに感謝します。

 

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

「潑剌と生きたものにのみ、

安らかな死がある」   野口晴哉

 

(ps.上の写真にあるレモンは、整体のご縁で有田川町で頂いたもの。)

 

 

mika

 

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共に学ぶ仲間を大歓迎します☆

 

https://ninomiyaseitai.jimdofree.com/?fbclid=IwAR2mFmMqP4b_7-59cgcWHi4GR_076piDtX_f2_JOhFZimL7xIakgDGsUaPs

 

初めての京都活元会③

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みなさん、こんにちはー✨

 

今日も、このページを開いて下さり

ありがとうございます。

 

整体の持つ価値に、少しでも多くの方が触れる機会となれば幸いです。

 

「初めての京都活元会」最後になります。

 

*****************

 

【活元運動とは】

昭和20年代野口晴哉が提唱した野口整体の要素(活元運動、愉気法、体癖論、潜在意識教育論、整体体操、整体操法論)のひとつ。身体自らが不調を回復する動き、またはそのための体操法・行法。

生を全うしようとする人間の裡にある力をより敏感にするための※錐体外路系を利用した自己訓練法。(参考:ウィキペディア、整体協会より)

 

※【錐体路系】大脳から脊髄を通って下行する、随意運動経路。

(意識して身体を動かす働き)

 

※【錐体外路系錐体路系運動外の不随意運動系路。錐体路系に協調して働き、錐体外路系に障害があると、錐体路系運動の働きも影響を受ける。

(意識で動かす事の出来ない働き…あくび、くしゃみ、寝相などの反射運動)

 

*****************

 

 

…………………

 

「はい、それではご一緒に呼吸を合わせます。」

 

「うぅ--む。」

 

「お腹に息をためて、片方づつ目を開けます。」

 

 

次は二人一組になっての相互運動のための

準備の手順である。

 

 

「あなた、いらっしゃい。」

 

と私に手招きをされる。

 

その後に、言葉はなかったと思うが、

なんとなく…

 

 

(さぁ、さぁ、いらっしゃい。)

 

 

と言われた様な気がした…

 

 

まずは、頭の緊張を取るために、

頭部第二調律点に輸気をする。

 

私が受け手になり、先生が輸気をして下さる。

 

鬼塚先生の手は、今まで触れられた人の中で、

一番柔らかく感じた…

 

いや、二番目だ…

 

(一番目はやはり小学校の時の友人の手。

いつもニコニコと明るく、やさしい笑顔を振りまく子で、ふとした時に手を握られて、その手の柔らかさに驚き、相手の手を掴み返して、マジマジと手のひらを眺めた事がある。今もその手の形と手の感触をありありと思い出すことが出来る。こうして書いていると、受け手の私は無心では無かったと少し反省するが…)

 

 

私が正座をし、後ろに立たれた先生の気を、

目を閉じ、静かに感じてみる。

 

柔らかくごく自然にスッと手を当てられると、

手の柔らかさの中に、その齢を感じた。

 

 

ひと通りの説明が終わると、

 

「では、二人一組で始めて下さい。」

 

「今日は音楽をかけますよ。」

 

 

そばにいた顔見知りのMさんと組んでの

相互運動。

 

 

相互運動は、いつも少し構えてしまいがちになるのだけれど、なるべくこころを開いてぽかんとするように、体の動くままに任せてゆく。

 

 

そして相手の動きについてゆくような、

受け止めるような、頭を空っぽにして

普段あまり使わない自分の感覚を

最大限に発揮してゆくような感じ。

 

 

無心に、夢中になって体を動かしてゆく。

 

 

相手の中に脊椎の動きを感じる。

 

 

目を閉じていると、もうその相手はいつものMさんではなく、ただ脊椎だけがぐにゃぐにゃと動いて、骨が独立しただけの存在であるかのような感じがしてくる。

 

 

その人の意識である*錐体路系は遠のいて

錐体外路系である純粋な体の欲求だけを感じているような感覚。

 

 

無意識の領域が解放されているような感覚。

 

 

完全に時間の外にいるような感覚の中で、

急に鬼塚先生の声がすっと意識に呼びかけてくる。

 

 

「それではご一緒に息を吸い込みます。」

 

「うぅ--む。」

 

「とお腹に息をためて、片方ずつ目を開けてゆきます。」

 

…………………

 

 

静かに片方ずつ目を開ける。

 

 

「運動」というだけあって、

活元運動、相互運動の後は、やはり一般的な運動の後と同じく、体が爽やかにリフレッシュされた感じがする。

 

 

(終わった………)

 

 

組んで頂いたMさんとお互いに礼をして終わる。

 

私は少し相手の目を真正面に見ることが苦手なところがあるのだけれど、恐る恐る真正面に向き直る。

 

 

「ありがとうございました。」

 

 

相手にも、キラキラとした爽やかさが

目に現れている。

 

 

それを見てまた相手の爽やかさを知り、

今日という日が充実した一日になったんだなと感じたりする。

 

 

最後は、活元運動の後の良い状態を脊椎に残すための運動をする。

 

 

「ぐ--っと背骨に力を集めて、ふっと抜く。

もう一度、今度は少し高い位置で。」

 

 

「ぐ--っと力を集めて、ふっと抜く。」

 

 

すると鬼塚先生がすっと私たちの方に来られて、

 

「抜くときはね、こういう風に、ふっと抜く。

こんな風に抜いてしまうと力が背骨に残らないよ。背骨に力を残すように、こうしてね。

前に抜くんだよ。」

 

 

「……そう、…そう。」

 

 

「はい…はい… あ、こうか。」

 

 

鬼塚先生のお歳ははっきりとは分からないのだけれど、その年齢によらず、明晰に全体と個人個人をしっかりと見ていらっしゃる。

 

 

目を覗き込むと、白髪の眉毛の奥に鋭い眼光を感じた。

 

 

そしてその鋭さの中に、優しさと奥深い情熱を感じたのは気のせいではないと信じる。

 

 

野口先生の息子さんである(故)裕介先生は、

「気は、愛かもしれない…」

とボソッと仰ったという。

 

 

私はその話しを聞いた時、

(あぁ、やっぱりそうだった。)

と納得して、とても腑に落ちたことがある。

 

 

つまるところ

「気が気を呼ぶ」というのは、

そこに愛があるかどうかなのだなと思う。

 

……………………………………

 

いつの時代にも「愛」というものは

人の理解に及ばず、単純でありながら複雑で、

数知れない誤解を招いて来た。

自分からは遠く離れているように思うが、

いつもそこにあり、自分自身の中を片時も離れず流れている。

 

 

そんな風に思う。

 

 

日本には元々、キリスト教が入ってくるまでは「愛」という言葉がなかったそうだ。

 

 

ネイティブ・アメリカンの人々も

「自然」という言葉を持っていなかったように、それはごく当たり前に常に存在し、

自分自身とそれは分離されたものではないという感覚なのだろうと思う。

 

 

人が今ここにあるもの、

自分の中にあるそのものに

気づくことは難しい。

 

私は持っていない

足りない

欠乏していると言い

常に飢えて渇望している。

 

この唯物主義の中で

あれでもない、これでもないと

渇望しているものは

結局は、目には見えないものなのだ。

 

 

その言葉にならない

思いの隙間を埋めてくれるものは

言葉にならない、

目には見えないものでしかない。

 

 

ロイ先生(裕介先生)が、

「気」は「愛」かも知れない。

と仰るなら、

 

私はそこに

「愛」は「いのちそのものである」

と付け加えたい。

 

…………………

 

言葉というものはとても不便で、

目に見えないものを表現することは難しい。

言葉にしてしまうと、

途端につまらないものに思えてくるのだ…

 

 

とにかく、現代人である私たちに

必要とされていることは

この唯物主義の只中にいて、

目には見えないものに気づき、

触れてゆくことだと思う。

 

そんな生き方が人の人生を満たした時、

この現代社会の抱える膨大で深刻な問題のほとんどは、いともたやすく解決されるであろうとも思う。

 

…………………

 

「今みんなは、目には見えないものに触れている。」

 

と*藤山先生は私に仰った。

 

整体に出会い、整体を通して

日々目には見えない

いのちに触れ、いのちを学ぶ。

 

 

それが今の私にとっての「整体」なのだなと感じており、その「感じる」という力を育ててくれている。

 

 

一概に、その痛みを取り、

その病気を治したりするものが「整体」だと言ってしまうと、それは余りにも表面的すぎてつまらない。

 

 

少しでも多くの人に「整体」を通して、

「いのち」にふれ、限りなく微細に振動する、目には見えないそのものを感じてほしいと思う。

 

 

私自身もまだまだ道の途中であり、

いのちがどんなものであるかを

知り尽くしてなどいないし、

知り尽くす事も出来ないのだと思うが、

その短いひとの一生の中で

知り尽くせない奥深さが、

死ぬまで私に探求という楽しみを与えてくれることに感謝している。

 

いつかこんないのちの話が、

ごく当たり前に人々の間で語られるような

そんな時代が来ればいいなと思う。

 

 

 

 

 

おわり

……………………………………

 

長文となりましたが、

最後まで目を通して頂き感謝します。

 

ありがとうございました。

 

*****************

 

(*藤山先生… npo法人二宮整体アカデミーの

講師、理事長、(故) 二宮進先生の一番弟子でもあられます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めての京都 活元会 ②

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みなさんこんにちはー◎

 

このページを開いて下さり

ありがとうございます🙂

 

整体が持つ価値に

ひとりでも多くの方が触れる機会となれば

幸いです。

 

大変遅くなりました💧

前回の活元会のつづきです。

 

*****************

【活元運動とは】

昭和20年代野口晴哉が提唱した野口整体の要素(活元運動、愉気法、体癖論、潜在意識教育論、整体体操、整体操法論)のひとつ。身体自らが不調を回復する動き、またはそのための体操法・行法。

生を全うしようとする人間の裡にある力をより敏感にするための※錐体外路系を利用した自己訓練法。(参考:ウィキペディア、整体協会より)

 

※【錐体路系】大脳から脊髄を通って下行する、随意運動経路。

(意識して身体を動かす働き)

 

※【錐体外路系錐体路系運動外の不随意運動系路。錐体路系に協調して働き、錐体外路系に障害があると、錐体路系運動の働きも影響を受ける。

(意識で動かす事の出来ない働き…あくび、くしゃみ、寝相などの反射運動)

 

*****************

 

 

(とうとうやってきたんだ…)

 

 

野口先生の写真、

野口先生の掛け軸、

そして野口先生に直接ふれ、その指導を受けられた、目の前の鬼塚先生の姿を見て、

柔らかな感動に似たものが湧き上がり

噴き出してくる汗を感じながらも

清々しく、心地よい。

 

 

そんなふうにこの場に身を置くだけで

清々しさを与えて、

ここにたどり着くまでの間の重苦しさはなんだったのか?

 

つきものが取れたように、

すっかりそんなものは無くなっていた。

 

 

自分の中の未知、その暗闇に何が潜むのか…

今明るい場所にいて、相対している。

 

 

人から見れば大袈裟で、理解できないであろう

恐れを乗り越えてここに来たが、

どうして長い間、この場に関わることに

敷居の高さを感じ、自分自身を拒絶されるように思っていたんだろう?

 

 

そう私に思わせたものはなんだったのだろう?

 

 

単純に、活元運動というものが、文明と理性という目線から見ると、随分と野性的すぎる感じがして、男性から見た出産とは、こういうものではないか…という近寄り難いものがあるのも確かである…

 

 

よくわからないが…

 

 

この思いは長らく抱いており、

最初の印象とは正反対の思いを抱いた事は、

人生の限られた貴重な時間を考えると

大きな損失だったのかもしれないし、

今が最大のタイミングだったのかもしれない。

 

 

けれどもまた、そんな風にまず、恐怖を感じたり、悪い方へと考えてしまうことは、ほんの小さな幼少期からの癖であることを、ふと思い出したりした。

 

…………………

 

 

何十畳あるのか分からない、広い空間。

 

 

目が悪いので顔はよく見えないが…

紺色の作務衣を着た鬼塚先生が

スッと座って、静かな声で話していらっしゃる。

 

 

そこから感じる気に、余分なものは無く、

静かでブレがない。

そして、柔らかく、優しい。

 

 

まるで一本の軸が

ただスッと伸びているような…

そしてその軸が、どこまでも伸びているのだ。

 

 

そこにエゴは感じられない。

 

 

「今日は初めての人が来るというから、話を用意しておいたんですが…」

 

 

やっと座った私の方を見て、

 

 

「活元運動は、初めて?」

 

「九州の○○ 先生が大阪に来られた時に…」

 

「そう。」

 

 

そう言って話に戻られる。

 

 

少し聞き取りにくく、

言葉を自分の中に残す事は出来なかった。

 

 

それでも、話しておられる姿を見ながら

時折和やかな笑いを交え、

そこに、「度・機・間」を見る。

 

 

お話の後はいよいよ活元運動であるが、

その前に準備運動がある。

 

ひと通りの準備運動をとても丁寧に説明しながら進めて下さる。

 

 

「側腹はね、食べ過ぎていると痛くってつまめないですよ。そんな人いない?  今日の人達は優秀だね。」

 

「今日は、音楽をかけますよ。」

 

 

気持ちよく準備運動を終え、手のひらを膝の上に置き、暝目し、活元運動が出るまでポカンとする。

 

 

ほんのしばらく目を閉じて活元が出るのを待っていると、すぐに鬼塚先生がそばに来られて、

 

 

「初めてですね、誘導します。」

 

 

と言って、活元運動が出やすいように、誘導のための手を添えて下さる。

 

 

その手から伝わるものは、

やはり柔らかさと力強さ。

安心して委ねられる中心を感じる。

 

 

(ん………⁈  動く……動く……!)

 

 

私は、あまり活発に活元運動が出ない方なのだが…

 

 

「鬼塚先生の誘導はすごいよ。」

と聞いていたのはこれなんだなと思う。

 

 

 

ごく自然に体の動くままに任せてゆく。

自由で心地よい。

 

 

(活元とはこういうものだろうか……)

 

 

動くまま、感じるまま。

 

そんな風に思いながら、

だだその動きにゆだねていた。

 

…………………

 

 

(つづく)

 

 

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長文に最後までお付き合い下さり

ありがとうございました✨

 

 

 

初めての京都 活元会

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皆さまこんにちは◎

 

1回目の「自然死のススメ☆」から、何を伝えたいだろうかと考え過ぎて、随分と日がたってしまいました…

 

自然死だけではなくて、整体を通して感じることも、色んな方向から書いていこうかなと思います。(でも、多分のんびりと…笑)

 

皆さんは活元というものをご存知でしょうか?

 

 

このぺ-ジを開いてくださってありがとうございます。

 

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先日の夜は、なんだか草臥れてしまい、うつらうつらとしながら、早い時間からそのまま眠り込んでしまった。

 

翌朝、早く目が覚めて、シャワーを浴びてから少し調べものなどをする。

 

ふと手を止めてから、

「そうだ、京都に行こう。まだ間に合うはず…」

と、京都行きの電車を調べる。

 

「やはり間に合うな。」

 

少し急いで身仕度を整え、

8時過ぎ、和歌山から電車に乗り込んだ。

 

目的地は、整体協会  京都研修会館。

 

去年も同じ場所へと向かったのだけれど、

ちょっとした行き違いがあり、結局たどり着けずに、和歌山に帰ってきてしまった場所。

 

その場所と人に出会うには、私の中で、何か心に引っかかるものを見つめる必要があった。

それは、「恐怖」というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、怯えるような気持ちがあったのは確かだった。

 

子供が、何もない暗闇に怯えるように、そこには怖がるものは何もないと、暗闇を確かめるために京都へ行こうと決心したのだが、その蓋を開けるまで、電車に乗っている間はその気持ちを抱えていることが重苦しくて辛かった。

 

和歌山から大阪、大阪から京都、京都駅からバスで50分、さらにバスを降りてから道に迷い、お弟子さんの電話での案内を聞きながら歩くが、ほとんど目印になる様なものがなく、心細く感じながらも、遅刻してしまう事に酷く焦りを感じながら急ぎ足で黙々と歩いた。

 

「整体協会 京都研修会館」

 

美しい木に書かれた案内が出ている。

 

少しホッとして嬉しい様な気持ちになるが、

そこからまだ少し、広い敷地内を石畳が続いており、足を早める。焦りから、戸口までが遠く感じる。

 

「もう一時を過ぎてしまった… 」

 

ふと顔を上げると、電話で道案内をしてくれたお弟子さんが、つっかけを履いて迎え出てくれていたことが、思いもよらず意外だった。

優しいんだな…と思う。

 

(ヒョロっと縦長で直線的、少し型にはまった話し方をする。体癖は何種だろう…?)

 

「遅れてしまってすみませんでした。」

 

「初めての人はね…迷うんですよ。」

 

思っていたよりもずっと立派な美しい日本建築の建物の中に案内され、雰囲気に圧倒されていると、

 

「参加費と…名前と住所、それからここにハンコを押して下さいね。着替えはいいですか?

荷物はここ、おトイレはここ。あ、お水は手元に置かないで。…どうぞ、座って下さい。」

 

何十畳あるだろうか…とても広い。

奥にある整体指導のスペ-スには、野口先生の写真と掛軸が掛かっている。

 

それを背後に見ながら座って話を始めておられるのが

鬼塚先生だ。

 

6月の初夏の日差しの始まりの中、ようやくたどり着いたんだと思うと同時に、汗がどっと吹き出してきた。

 

(とうとう、やって来たんだ。)

 

つづく

 

 

整体的 自然死のススメ☆

2019年も、もう2月となりましたね。

 

皆さまいかがお過ごしですか?

 

このペ-ジを開いて頂いて

ありがとうございます。

 

 

自分自身が持つ、この命について

理解を深めるキッカケになれば幸いです。

 

 

自分の命も、相手の命も同じです。

自分の命を知ると、相手への理解が深まります。

 

………**………**………**………**

 

整体の素晴らしい知恵は奥深く、

どこまでも広がる生命の不思議は、

果てしなく続いて行きます…

 

 

生命の神秘に底はなく、

以前に聞いてから、

今も心に残る言葉があります。

 

人の探求する楽しみが尽きる事のないように…

 

 

『神はそこに永遠を置かれた』

 

 

この言葉が好きなんです。

 

言葉通りに受け止めると、

 

 

『決して全てを知り尽くす事は出来ない』

 

 

と言うことになるのですが…

 

答えのすぐに見つかるものは面白くない。

 

 

自分のスペースに「研究所」とつけたことにも繋がっていく…

 

 

生涯をかけても知り尽くせない。

何世代かけて、やっと1つ分かることがある。

 

 

人は、知りたいと思う事へと、

理解が一歩近づいた時に

深い喜びに至るものだと思う。

 

 

………**………**………**………**

 

 

今年からの新しいサ行研究所のテ-マは…

 

 

「自然死」

 

 

まず初めにお伝えしておきたい事は、

 

私の「死」への興味は、「生」から切り離されたものではなく、「生」の延長線上にあるものとして捉えていると言うことです。

 

 

「生なくして、死はありえない」

 

その逆もまた同じであり、

それは密接に繋がっていて、

「生」を見つめると、

自然と「死」が見えてくる。

 

 

そんなものだと感じています。

 

 

でも「急に興味が湧いた」というよりは、

ずっと以前から、少し漠然としたものとして、

長く抱き続けてきたものだと思う。

 

 

このあまりにも深淵な未知の世界を

多くの人は、恐れ、タブ-として来ました。

 

「死」は、自分にはコントロールの出来ないものであり、突然やって来る、暗く恐ろしいもののように思う…

 

しかも今では、病院で死ぬことが

当たり前のように受け入れられ、

死際の、最もデリケートで、

息を潜めるように、全感覚を研ぎ澄ませてゆく時間であるべきだと思うのだけれど、

 

実際には、周囲が忙しく立ち回り過ぎ、

医者の処置や家族の感情に翻弄され、

そんなものかと身をゆだねていくうちにその時を迎える…

 

そんな死を迎える方のいかに多い事かと思うといつも胸が痛みます。

 

整体から見た死は、そんな暗く恐ろしいものではないのです。

 

今、多くの人が「自然に生きる」事を選択し、

その割合は随分と増えて来たように思うのだけれど、最後が病院ではもったいない。

 

そこで「死」を切り離さず、

「自然に死ぬ」事を選んで頂きたいと思う。

 

 

野口晴哉先生の言葉です。

 

『溌剌と生き切った者にのみ、

安らかな死がある』

 

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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

皆さまに、いのちの輝きがありますように。

 

mika